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2005年4月号 「低学年に感じたこと その2」

■価値観の作り方■

 実は私はまだ新米お父さんです。だから何一つ偉そうなことをいえません。毎日が試行錯誤です。世間の親御さんたちはどんなふうにして子どもに忍耐力をつけようとするのだろう?価値観は、どう育てたら良いんだろう?そんなことをいつも考えてしまいます。小学校高学年にでもなれば、剣道やらサッカーやらでの精神修行は効果を発しますが、低学年のうちでは「お遊び」に過ぎません。少なくとも自分の体験では納得済みです。ましてや3歳児・4歳児では体操に過ぎず、精神修行を期待するだけ無駄だとも思っています。(そうではない!とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが。。。)そう思っていた矢先、あるご家庭と出逢いました。そのご家庭では忍耐力、価値観に関して、徹底的にお金で絞ったそうです。ちょっとワクワクしながらお話を聞かせていただきました。そのお話をご紹介します。
 首都圏に住むAさん。お子さんが3歳を過ぎて間もなく、初めて神社のお祭りに連れて行ったそうです。その時にはお子さんに小遣いとして300円しか渡さなかったそうです。その金額では殆ど買えるものがなくて(綿菓子も買えなかったらしい。。。)、とりあえず300円以下の商品をリストアップするだけで2時間もかかってしまい、親の方が閉口したとおっしゃっていました。でもそこで、300円を500円にしたりすることは考えなかったそうです。
 そう、それでいいのです。安易に方向転換することで子供たちは迷い、甘えます。海外にいると、迷いが多い。迷うことは仕方がないとしても、安易に方向転換してはいけないのです。もしコロコロ目標を変えているのであれば、反省しなければなりません。いくら「海外に連れてきてしまった負い目」を感じているにせよ、毅然とした態度を持っていなければなりません。子供たちは振り回され、何一つ大成しません。
 そのご家庭のお話に戻ります。おもちゃを買うのは原則的に年に1回の誕生日だけだそうですが、その他サンタさん(おじいちゃん・おばあちゃん)がくれるけっこう高額なプレゼントもあるし、兄弟の「お下がり」が多すぎることもあって、子ども部屋はあっという間にいっぱいになってしまったそうです。おもちゃの不足に悩むことはないし、300円をどう使うかと思案することは子どもの成長にとってマイナスになることはないと思っていたそうです。
 そのお祭りの夜のこと。
 その親子は300円を握り締めて2時間以上も神社の境内の夜店を回り続けました。夜店の一つで、実に気分の悪い経験をすることになったそうです。
 ひとりの小学校4年生くらいの女の子とその母親が、夜店の両側から大声で話し始めたのです。
  「おかあさ〜ん。これ買っていい?」
  「何よ、それ?!」
  「これ〜!」
 そう言いながら、女の子が商品を振りかざします(それが何だったか忘れてしまったそうですが)。母親がそれに応えます。
  「いくらなの、いったい、それ?!」
  「2800円!!」
  「何でもいいから、早く買って!もう疲れた!」
 お祭りの夜店ですから物価は高いです。しかしいくら値の張るものが並ぶとはいえ、所詮田舎のお祭りの夜店です。べらぼうに高いものがあるわけではありません。その中で2800円という商品は、ほぼ上限に近い金額だと考えられます。
 皆さんは、このお話をどうお感じになられましたか?私は「軽い眩暈を感じるようなショック」を受けました。お話を聞かせてくれたお母さんも同じように感じたとおっしゃいました。夜店で2800円程度の買い物は、この母親にとって子どもの欲望を上限まで満たすかどうかまで考えられてもおらず、まさに「どうでもいい問題」ということになります。このお話の中に、ギクリとするものがありますか?もしおありなら、さらに考えてみてください。
 小学生が欲しがるものの上限金額などたかが知れています。最大に見積もってもゲーム機3万円程度が限界ではないでしょうか。日常的には数千円の買い物がその子の欲望の上限だと見ていでしょう。ましてや海外では日常的におねだりするものなど無く、日本からおじいちゃん・おばあちゃんが色々なものを送ってくれることもあって、欲しがるものなど無いという子どもも多々います。普段欲しがらないせいか、日本に帰れば、または海外でも日系のお店に行くと、いとも簡単に買い与えてしまうことがあります。値段を考えずに、です。
 小学生ならそれも何とかなるでしょう。中学生ならどうでしょうか?これも大概10万円以内で済むでしょう。しかし高校生だとそうはいかないかもしれません。80万円のバイクなら、応じるかも知れませんね。では800万円のスポーツカーならどうでしょう?1億円のマンションなら買い与えますか?更にエスカレートして「東大へ裏口入学の道を探せ」「とにかく財産収入だけで遊んで暮らせるだけの道筋をみつけろ」などなど。。。さて、親はどこまで応えてやれるのでしょう。
 「そんなことはとてもできない」と言ってはいけません。買い与えてきたのであれば、十数年に渡って「望むものは上限まで与える」と教えてきたことになるのですから。今更それは違っていたと言っても、子どもの方では聞くだけの準備がありません。突然方向転換しても、もう軌道修正は出来ないところまで来てしまったのです。そうなると要求に応えざるを得ないでしょう。しかし要求に応え続けてもまた、地獄は続きます。その無法な要求のために努力すればするほど、子供たちの苛立ちは募るのです。そう、ここです。応えても子どもたちの苛立ちは募るのです。それを理解しなければなりません。
 子どもたちは自分の要求が無法なことを知っています。だからいずれの日にか、こう言います。「そんな無法な欲望に付き合おうというのは、そもそも自分は愛されていないからだ。どんなにダメな人間になってもいいと思うから、悪いと思っても欲望に付き合おうとするんだ。」 ・・・・え?
 ウチの子はそこまでは言わないだろうって?それは、時間が経てばわかります。十数年後に必ず答えが出ますから。
 では、具体的対処はどうしたらいいのか。私はこのお話をしてくださった「300円のご家庭」に答えを見つけだした気がするわけです。簡単です。よく言われることを実行すればいいと思ったのです。子どもが何かを欲しがったら、一ケ月だけ我慢させればいいのです。それが本当に欲しいものなら、一ヶ月間、他の欲望すべてを我慢することができるはずです。それが「より高い価値のために別の何かを我慢する」ということなのです。例え3歳の子どもでも、それは実行する価値があると思ったのです。
 親は丸一ヶ月の間、子どもの喜ぶ顔や感謝の言葉を我慢しなければなりません。親も試練です。しかし、子どもの「欲しい」という思いが一ヶ月間持続すれば、それを手にしたときの喜びは、始めに与えられるよりも数倍大きいだろうということは容易に想像できます。感謝もそれに比例するはずです。逆に、欲しいという思いが一ヶ月持たなかったら、それはそれで価値を持ちます。一ヶ月前あんなに欲しかったものが、今はつまらないものにしか見えない。そういうことが、子ども自身で確認できるわけです。こうして、子どもは自分にとっての「価値観」を作り上げていくことが出来るというわけです。  

 

■子どもはテレビから学ぶ■

 子どもは一日に何時間テレビを見て過ごすのでしょう?インターネットで検索してみました。ちょっと古いデータですが、「平均2時間10分」だそうです。(学研の調査より:1994年)
 学年別のデータを見てみると小学校1年生で1時間49分。6年生だと2時間31分。そのデータからすると、6年生の場合は年間で918時間ほどになります。これは学校で教科を学ぶ時間より遥かに多いのです。え?そんなことないだろうっておっしゃいますか?では計算してみましょう。
 一般に公立小学校の一年間の登校日数は216日です。総時数でいうと1198時間程度になります。(この段階ではまだ授業時間の方が勝っているように見えますね)しかし、学校の1時間は実際には45分しかありません。その分も計算に含めると1198時間×(45/60)=898.5時間となります。つまり学校で学ぶ時間よりもテレビを見ている時間の方が20時間ほど長いことになるのです。
 さらにそれだけではありません。その898.5時間の中には、学校行事のための79時間、特別活動(クラブなど)のための51時間などを含むのです。つまり、実際の教科・道徳の時間はわずか706時間(実質)に過ぎないのです!!テレビを見る時間と比べると、学習時間は23%、200時間近くも少ないのです。
 日本の子どもたちは学校で勉強するより遥かに長い時間、テレビによって教育を受けているのです。そのことを忘れてはいけません。海外であると、例えば日本語力維持の目的で、TVジャパンなどを流しっぱなしにしたり、おじいちゃんに撮ってもらったビデオを見せっぱなしにすることもありますが、それが相当の時間になっているということも意識すべきだということです。
 さて、そこで問題なのはテレビを通して子どもたちが「何を学んでいるか」だと思うのです。例えばVチップというのがあるのをご存じですか?インターネットでもペアレントコントロールというものもありますね。ところが意外に、日本の娯楽番組に対しては、大人が子どもに対しての配慮をしていないことが多いように思います。子どもの見るテレビ番組に、ほとんど制限を加えていないような気がしてならないのです。耐えがたいバカ笑い、揶揄と嘲笑。暴力と性。重々しいことより軽薄であることを尊び、真面目をバカにし、品性をわきまえず、権威にツバする。どれがと特定こそしませんが、娯楽番組といえば、これらが多々含まれていると思いませんか?そうしたものを小さな頃より折に触れて耳に入れながら育つ。こうした環境で素晴らしい子が生まれる訳がないではないですか。
 あなたが今、子どもと肩を並べながらノン気に「バカ殿」などを眺めているとします。親子の共通の話題をつくり、それで親の務めの何かしらを済ませたつもりでいるとします。それが、数年後の子どもにどんな影響を与えているか。。。。そのことをあなたは知らない。怖くはありませんか?  

 

■小学校の入学式に何を持って行くか■

 もちろん小学校指定のノートだのランドセルだのの話をしているわけではありません。子どもを小学校に上がらせるに際して、どれだけのものを身につけさせて送り出せるか、という問題です。
 もしかすると、あなたはこう考えているかも知れません。その年度内に7歳になる、日本国籍を持ち心身とも一応健康な子どもであれば、誰でも小学校に上がれる、と。いえいえ。そんなことはないのです。小学校で普通の生活を送るためには、それなりの資格というものが必要なのです。
 それは当然なのです。すべての場において「参加するための資格」というものがあるのです。医師会の参加資格のひとつは医師であることだろうし、成人式の参加資格は「新成人」または「その保護者」あるいは「成人式の進行スタッフ」といったところです。村の草野球なら「野球を楽しんでやりたいと思っている者」ということになります。帰国生であっても、日本の学校に進学するのだから「日本の学校で学ぶにふさわしい学力を備えた者」になるはずで、決して「現地校生活によりアメリカナイズされすぎてしまった、日本の常識に欠ける、学力もない生徒」ではないはずです。このあたりは、既に私たちが警鐘を鳴らしてきたことですね。今回のテーマである「低学年」以上の子どもたちの話です。では普通の小学校に上がるための資格とは何なのでしょうか?
 まず、字が読めなければなりません。文として読めることが暗黙の前提となるのです。文は書けなくても良いのですが、名前くらいは書けなければなりません。
 1から100までの数が数えられること(しかし、たし算もひき算もできなくて良いのです)。そして、自然の中でよく遊べること・睡眠を中心として規則正しい生活習慣を有していること・好き嫌いなく食べることができること・価値の高い何かのために別の何かを我慢することができること。。。それらができなければならないのです。そういう子どもであれば、何の問題もありません。
 そうすれば子どもたちは、勉強という(あるいは親を喜ばせるという)高い価値のため、自ら進んで静かに座っているのです。清掃やその他の苦しい活動も、さほど苦しい思いをせずに行うことができるのです。言われなくても、宿題をやるだろうし、友だちと相和し、適切に自己主張し、適切に引くことができるでしょう。そしてつまらないことに容易に傷つくことはないのです。
 そして着々と実力を重ね、長く安定した日々を送ることでしょう。その先も努力は必要ですが、この日までダラダラと怠け暮らした子どもたちよりもずっと良いスタートが切れるはずなのです。
 一方、呑気者の親は、入学式のその日、ボーっと育てられた子どもの手を引いて学校に向かいます。しかし隣にいる何人かは、すでに前述した資質を備えています。そのことを忘れてはいけません。前述した資質を備えている子どもたちを見れば、「入学時にすでにたし算ができた」というあなたの子が、実はいかにつまらないか、ということがよく分かるのです。たし算なんて、わずか一ヶ月で追いつく数学上の技能に過ぎないのです。そんなものを身に付けて学校に上がらせても、1年生後半の算数の時間を10時間ほどかせぎ、その時間を遊ばせておく程度の役にしか立たないのです!!
 さて、今、子育てで苦労しているお父さん・お母さん。思い出して下さい。どういう思いをして、お子さんを小学校に上げたのか。例えば「好き嫌いが多く、あれこれ食べられないものがある」ということが学校でどういう意味を持つのか、お考えになったことがないかもしれません。しかし、それは思いもかけず重要なことなのです。ちょっと考えてみましょうか。
 学校の最も大切な価値は「平等」です。どんな場合も、子どもたちは不平等を「えこひいき」として許しません。時代がどうに変化しようとも、「えこひいきをする先生」が嫌われる教師のベスト3から滑り落ちることはありません。そうすると給食においても、Aちゃんに「残していいよ」とサインを送りながらBちゃんに許さないということは絶対にできないのです。それが可能なのはアレルギーによる除去など、「誰にとっても納得の行く理由」がある場合だけなのです。
 Aちゃんに許した自由は、その他すべての子どもも享受する権利がある。(百歩譲れば1〜2種類の食品について、「苦手なもの」としてお互いに認め合い除去しあうのも可能かもしれない。けれどそれとて「1〜2種類」までで、「野菜が食べられない」といった丸ごと除去は不可能です)
 一般的に教師は「みんながんばって食べるようにしましょうね」というかたちの指導をします。なぜなら、一人分を丸ごと食べて必要なカロリーや栄養素が摂れるよう計算され尽くしているのが給食だからです。普通の教師は「必要な栄養は摂らせなければならない」と考えています。そして大半の子どもが教師の指示に従って努力する、がんばる、口に入れたくないものを入れ、嚥下します。
 ところがその中にあって、あなたのお子さんだけは努力する気配さえ見せない。毎日毎日給食のたびにただ無為に時を過ごし、担任が匙を投げるのを延々と待っているのです。(というのは夏場など、1時間を越えて食べさせることなど普通の担任にはできないからです。子どもはすぐにそのことに気がつくのです。)やがて教師は根負けして勝負から引きます。担任は諦めるわけです。
 しかし諦めない者もいるのです。それが同級生です。同じクラスの子どもの一部は、自分たちが苦しい思いをしてがんばっているにもかかわらず、アンノンと好きなものだけを食べようとするあなたのお子さんが許せなくなる。「給食が食べられない」というだけの理由で憎まれるのではありません。「食べるための努力をしない」という理由で憎まれるわけです。この先の展開は、ご想像に難くないでしょう?

さらに続く。。。

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