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2005年2月号 「低学年に感じたこと その1」

■改めて駐在員の低年齢化を考える■

 駐在員の低年齢化が指摘されて、もう何年経つのでしょうか。現実、ゲイザーズバーグやヴィエンナあたりでは学齢期前の子供たちを多く見かけます。ベセスダやマクリーンで見かける日本人も、若いお母さん・若いお父さんが増えたように思えます。
 これだけ情報が入手しやすくなった時代です。もし「駐在期間はきっかり3年」と決められていたら、赴任前から帰国後の進学計画をきちんと立てていることでしょう。逆に限られた時間を「貴重な体験をする期間」とすることも可能だと思います。しかし「会社の命令如何によってどうなるか分からない」という場合は宙ぶらりんになってしまいがちです。例えば「海外から海外への赴任」や「いったん日本に帰っても、すぐ再び海外に出る」等という場合、継続した進学設計が立てにくいというわけです。「せっかく苦労して私立小に入学させることができても、途中で退学しなければならなかったんです。」そんな話を聞くと、受験勉強が直接関係のない低学年の子供だからこそ考えてしまいます。果たして、低学年の子供だからのびのびと海外生活を満喫させても良いものか、と。
 昨年から始めた低学年のコースは、駐在員の低年齢化の流れから考えても開講しなければならないものだったと思います。それだけ、当地のご家庭が真剣に進学をお考えであるという現れだったと思います。私たちとしても、漫然と授業をするのではなく、塾としての「役割」をきちんと考えたいと思っていました。「受験」という、具体的で明確なモチベーションを持たせにくい低学年の学習指導は、どうあるべきか。この1年を振り返りながら、私たちが感じたことを3回にわたってまとめてみました。  

 

■なぜ平気でいられるのでしょうか?■

 ここ十数年間に起きた少年事件。残忍と言う言葉しか思いつかない様な事件。いわゆる普通の子が「まさか?!」と思わせることをしています。見るからに「何かやりそうな子供」ではなく「普通の子」が、です。彼らは受験勉強の犠牲者として扱われたこともありました。「成績優秀な子供だからこそ残虐な事件を起こした」と。ニュースがないときに鍵って、こうした教育問題が煽られる傾向にありました。そこで机上の空論しかいわない「似非教育者」たちも登場します。我が子の荒れた実態を暴露したことで、教育相談所所長家になるという馬鹿げた行動をとるタレントもいましたね。警視庁がまとめている犯罪データ的に見れば少年犯罪の数は減少しています。成績優秀な子供の重大事件は非常に希です。毎日のように起こっているものでは決してありません。
 ただ怖いのは、それでも別世界のことと言い切れるのか?ということです。「うちの子に限って」何故ですか?その自信はどこから来るのですか?それ以前に、そうした視点をお持ちでないご家庭が多すぎるような気がして不安なのです。
 猫の子は犬に育てられても猫にしかなりません。猿の子は人間に育てられても結局は猿です。しかし「人間は違う」ということをご存知ですか。狼に育てられた子、アマラとカマラの例を見るまでもなく、人間は羊にも狼にもなれる恐ろしい生き物なのです。今、あなたが育てているものが「狼にはならない」と、なぜ高をくくっていられるのでしょうか?
 あなたが育てているものが狼となり、その牙を世間に向けて剥いたとしたら、あなたは大切にしているものの一切を失うのです。職を失い、友人を失い、社会的信用を失い、家族を失い、親戚を失い、趣味や楽しみを失い、希望を失うのです。莫大な賠償金を背負いながら、しかしあなたは二度と「今の」生活に戻ることはできないのです。町を離れなければならないでしょう。けれど苦労して手に入れた家には買い手もつかないでしょう。そこで借金と税だけが無駄に食われるのです。
 いや、そんなことはない。ウチの子がそんな大それたことをするはずがない。
 そうかもしれません。けれど、そこまで大きな事件ではないにしても、例えば、我が子が警察に検挙されたとしても、あなたは傷つかないだけの覚悟はあるのですか。警察沙汰でなくても結構です。ではカンニング行為は?友達の持ち物を盗んで使っているとしたら?それを常習とし、そのことに対して何の罪の意識もないとしたら?いじめられていたとしたら?いじめていたとしたら?人に迷惑をかけていないとしても、例えば一昔前の、あなたの時代には「どうしようもない」といわれていた人たちと同じような「あられもない姿」で、我が子が町を闊歩しても、「人は見かけじゃないよ」と言い張れる自信がおありですか?
 今、あなたは確かに忙しいかもしれません。たまの休みを心身の休養に当てたい気持ちはよく分かります。けれど今、あなたが平然と見放している、その行為によって、その無関心によって、あなたの大切なものの一切が奪われることもあり得るのです。
 低学年の子供にとって「変化することは」一瞬のできごとだということが、とても恐ろしいことを含んでいるのだと痛感しました。だからこそ、先人の我々は、責任持って子供達を見守らなければならないと思ったのです。決して片手間では出来ないと思ったのです。

 

■どういう子を育てたいのか

 教育には目標が必要です。
 「普通でいい。平凡な人生を送ってほしい。」そう願うなら「何が普通で何が平凡であるか」をハッキリさせなければなりません。海外生活でも同じです。「将来のための経験として」という曖昧な表現ではなく、「何にプラスになるのか」をハッキリさせ、だからこそ比重を「コレ」におけというべきなのです。それをボワンとさせてしまっては、分かるものも分からなくなります。「自由にのびのびと」そうおっしゃるのであれば、5年後10年後も、我が子が「のびのびと自由」でいられるために何が必要なのかを、低学年のうちから考えさせ、教え込んでいくべきではないでしょうか。
 そもそも人間として「普通」であるために、どれほどの技能を身につけなければならないか。それはそれは大変なことだと思うのです。朝自分で起きること。歯を磨いたり顔を洗うこと。好き嫌いなく何でもおいしく食べること。自学自習ができるようになること。「そんなこと自然に身に付くものだ」としか考えていらっしゃらない。いや、そもそもお考えになってすらいないのかもしれません。
 お子様が18歳のとき、高校で「自由にのびのび」と生きているとしたら、それは相当に実力のある証拠です。まず、すべての教科で平均以上の成績がないとのびのびとはいきません。次に教師との関係も含め、人間関係についても苦労なく自然に振舞って、そこそこにこなせるだけの才覚がなくてはなりません。加えてよき趣味があり、それに熱中できることがあったり、多少のトラブルにたいしても、高校生らしく対処できることなどが必要かも知れません。そうしたことのすべてが揃わないと、子供達はのびのびと生きることはできません。それにはに元手がかかります。
 「鉄は熱いうちに打て」という言葉があるように、子育てはその子が小さければ小さいほど元手も少なくてすみます。それなのにあなたは「何もしない」ことで子どもを「自由でのびのびとした普通の人間に育てる」という甘い夢を持ってしまっているのです。しかも海外という特殊環境が、その夢を高尚なものにしてくれるのではないかとまで思いこんでしまっているようです。それがいかに甘い夢か、十数年後、あなたはあなた自身とあなたのお子様によって思い知ることになるでしょう。お子様が明らかにあなたの「犠牲者」となって、そうなって初めて思い知ることになるでしょう。取り返しのつかない低学年の「熱い」時期。その大切さ。気が付こうとしない、目を背ける行為。
 昔の子どもたちはそんな育てられ方はしなかったのです。「子を育てるには、授乳の時期からだんだん仕込むようにしなくてはダメだ。まだ小さいからといって、気ままにさせておいて、さあ大きくなったからといって、急に行儀だ言葉だとやかましく言っても、直るものではない。あの植木を見なさい。小さい時からいつも気をつけて手を入れた木と、生えてきたまま自然にしておいた木と、どのくらい違いがあるか知れない。大きくなって枝を曲げたり切り込んだりしてみても、木が傷むばかりで、とても小さな時から手を入れた木のようにはならないものだ。それと同じことで、はいはいをしない前から気をつけて教えていけば、ご本人は少しも難儀ともつらいとも思わずに、自然にいろいろ覚えるけれど、大きくなってしまってから急に行儀を教えると、本人は窮屈で苦しいものだから、人前ばかりで行儀をよくしても、人のいない所ですぐ崩してしまうので、とても本当の躾はできない。」(和田英「我母乃躾」より)
 大切なことは「どんな子に育てたいか」「海外生活は具体的にどこに中心を億か」「帰国後の進路はどうしたいか」というような、より具体的な明確なビジョンを持つことです。ご夫婦が同じご意見をお持ちであることも大切な要素です。海外生活を抽象的な夢物語ではなく、シビアに具体化すれば気を付けるべきことは見えてくると思うのです。そして、その「見えてきた、やるべきこと」を、行動に移しやすい低学年期のうちに「何をするか」ということなのです。親の権限が利く、低学年のうちに始めるからこそ意味がある、という訳です。

 

■子を見よ■

 今の親たちの不幸の一つは、日々の生活において、たくさんの子供達を目にする機会が少ないことともいわれます。昔、近所に子供達がたむろしていた時代。その周辺には子供達の姿を見る親たちがいました。その頃の母親は実に多くの子供達を見ていたものでした。我が子の欠けたるが何かをよく知っていたものでした。そしてまた、父親たちもよく子供達を見ていたのでした。農家は農家なりに、職人は職人なりに、仕事の手を休め体を伸ばせば、そこに子供達の遊ぶ姿を見ることができたのです。今から100年も前の話です。当然、現代においてその環境はありません。
 子を見よ。他の子と比べてはならないといいますが、それは「他の子と比べて我が子を責めるな」という意味であって、我が子だけを見ていればいいという意味ではありません。せめて一度、親子遠足にでも出かけて、我が子を比べる目で他の子供達を見て下さい。他の子はあんなに自由に外を駆け回り、高い所も少々危険なところも平気で飛び回っているというのに、あなたのお子様はモジモジと恐れ、尻込みをしているかもしれません。他の子は何でもおいしそうに食べ、清々しいほどの食欲を見せています。なのに、あなたのお子様はほとんど何も食べられない。幼稚園や小学校で出される食べ物に、食べられるものはほとんどないのです。他の子は物怖じせずあなたに話しかけ、挨拶もできるというのに、あなたのお子様はいつまでもあなたのそばにしかいない。そんな惨めな子にしてしまったのは、お子様自身の責任なのでしょうか?養育の面倒を見ているお母様の責任でしょうか?お子様をお母様に任せきりにした、お父様の責任でしょうか?「他の子と比べ、わが身を責めよ」と締めくくります。  

 

■最初に教えることは三つしかない■

 学齢期前の、例えば1・2歳児がやっていることは三つしかありません。遊ぶ、食べる、寝る。それですべてです。だとしたらこの時期に教えることは三つしかありません。よく遊び、よく食べ、よく眠ること。それだけです。
 ところがこの三つが信じられないほど大変です。子供の一人遊びに果てしなく付き合うこと、好き嫌いなく必要な栄養が摂取できるように十分時間をかけ食べさせること、寝つきの悪い子を時間通り寝かせつけること、その三つのためにどれほどの時間とエネルギーを注がなければならないことか!
 遊ぶこと、特に外遊びをすることは体をつくることに他なりません。手を汚し、その手を口に含んで無害な雑菌を大量に摂取する。それによって培われる抵抗力。飛び石をバランスよく飛び回る力。高いところを恐れないこと、体が回転することへの恐怖感をなくすこと、よく走ること。そうしたことは遊びの中でしか身につきません。本を読み聞かせて分かるものではありません。テレビゲームから学べるものでもありません。
 眠ること。夜の繁華街をご夫婦連れ立って出かける光景。それだけなら微笑ましいのですが、お二人の間に小さなお子様子がいるとき、私は恐怖します。人間が動物である限り、夜寝ない子は結局ダメなのです。十分で正確な睡眠は単なる休養のためではありません。夜は成長のゴールデンタイムです。脳を脳単独で解析できると考える大脳生理学者はいません。脳とは全身に広がる神経すべてを含んだひとつのものといわれます。体を休めずに脳だけが単独に発達することなどありえないのです。
 好き嫌いなく良く食べること。これも単なる栄養摂取ではありません。必要なものを必要な分食べさせながら教えることのひとつは、『必要なことは耐えて行わなければならない』という教育のテーマそのものなのです。好き嫌いの多い子供達は一様にわがままで耐性に欠けます。彼らは勉強などというシンドイことに、絶対に耐え続けることはできません。人間関係の複雑さに我慢し続けることもできません。怒りを抑えられないのです。暴力を抑えられないのです。欲しいものには何にでも手を出します。欲望のままに脅す、盗む、殺す。人をいじめる子供達の食事を見てください。それだけですべてが知れるというものです。  

 

■4歳までに何を育てるか■

 『三つ子の魂百まで』といいますね。これは数え年での話ですから、今流に言えば『4歳児の魂百まで』となりましょう。経験的に言っても、確かに3歳までの子と4歳児とでは異なると思います。例えば、3歳までの子はほとんど天使ですが(女の子は特にそうだと思います!)、4歳の声を聞くととたんに口ごたえをするようになります。厳密に4歳というわけではありませんが、3歳と4歳の間には何か決定的な違いがあるのではないでしょうか。したがって、4歳までに何を育てておくかが問題になるのではないかと思うのです。
 三歳児は他の誰にやってもらうのでもありません。まさに「自分でする」ことに何よりもこだわります。「ボクがやるの!!」これです。それが周囲の大人の「いけません!」と衝突するとき、「強情」「片意地」「反抗癖」など、いわゆる「反抗現象」が生じます。この時期の獲得目標は小さいながらも主体性(自主性)の達成であります。ゆえに、自分で選ばせてやらねばなりません。「自分で選んだ」ということが大切なのです。しかし、まだこの段階では「自分で」に重点がおかれて、自分しか眼中にありません。それはまだ「『から』の自由」の実現であって、「『へ』の自由」の達成ではありません。社会的な秩序や要請に自らを合わせてゆくことを学ばねばなりません。
 自分なりのつもりをもって自分でするという、彼らの意志(自我)が遭遇する、社会的な株序や要請との矛盾、葛藤を解決する力を獲得しなければならないわけです。がむしゃらに自我を主張し、反抗するのでなく、自らの要求や意志と外的な要請との矛盾を調整することを学ばねばならないというわけです。彼らはそれを「早く乗りたいけれども順番だから待つ」「淋しいけれども、お兄ちゃんだからお留守番をする」という、「〜ダケレドモ〜スル」という自制心(自律心)の獲得によって実現してゆくわけです。ほぼ四歳前後のことだといわれます。
 その自制心の内実は、外からの強制によって「待たされる」のでもなく、「留守番させられる」のでもない、自ら待ち、留守番するつもりになることでなければならないのです。重要なのは自分なりに納得してするつもりになることです。そのことは、子どもの内面で自ら価値あるものを選択し、より高次の価値のためにより低次の価値を従属させるという営みが行われることです。そのとき、ある動機(価値)に、他の動機(価値)を従属させるという形で、諸動機を相互に調整し、結合するという最初の「結び目」ができます。そこに、人格の自律性の最初の獲得があるわけです。「『ケレドモ』でふみこたえ、『ケレドモ』をテコに起き上る誇り高き四歳児」の誕生です。
 簡単に言ってしまえば、何かのために別の何かを我慢し、そのことに誇りを持てる4歳児。それが目標なのです。ふんだんに物を買い与えられ、自由にテレビを見させ、そして好きなものを食べ好きな時間に眠る、そうした生活からは決して生まれない4歳児でもあるわけです。
 したがってまず、ジャンケンポンができなけれなばなりません。「代わり番コ」または「順番コ」ができなくてはなりません。つまり、ルールに従って己の欲望に一時的な封をすることができなくてはなりません。(ということは、これらの件についてはたとえ相手が幼児であろうと容赦してはならないということです。ドキッ!ですか?)しかしそれだけでは不足です。昔のように家庭の大半が農業従事者であるような時代ではありません。遊びを我慢し、家族労働の一翼を担って働くというわけにもいきません。入試にも、特に女子中などでは面接で聞かれる項目の筆頭「お手伝い」といっても、普通のサラリーマン家庭ではやることに限りがあります。だったら、どういった場で子どもを鍛えていくのでしょうか。
 これも答えは簡単です。子どもが一番に望むものです。遊びとモノとテレビで鍛えていくしかないというわけです。 。。。つづく

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