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2005年5月号 「低学年に感じたこと その3」

■小学校1年生で大事なこと■  

 低学年の保護者が心配することは何でしょう。その基本は次の2点ではないかと私は考えます。   
 1)みんなについて行けるだろうか。   
 2)いじめられないだろうか。  
 実は2)については言葉がありません。確かにトラブルはあるでしょう。しかも絶え間なく起こるでしょう。何人かの子どもは一年中泣かされて、そのたびに「いじめられた」と大騒ぎし、家に逃げ帰ってくるかもしれません。ましてや、それが言葉の通じない環境に突然放り込まれたら。。。しかしそんなことは全く問題ないのです。
 子どもたちは年がら年中、それぞれの身勝手な自己主張をぶつけ合わせ、傷つき傷つけられる中で学んでいくのです。人間関係とは次の言葉で代表されます。「互いに主張し合い、せめぎあい、そして引き合ってお互い様」(『引きこもり』という言葉を命名した教育学者・富田冨士也先生の言葉)
 だから、そこで子どもが苦しもうと(原則的には)私はまったく苦にしません。彼らは今、人間関係の学習中なのです。傷ついてもわずか1日でケロっとして、またやり直すのが子どもたちです。その意味で、まるで彼らはゾンビみたいなものなのです。
 では、小学校1年生で心配しなければならないことは何かというと、それは勉強のことなのです。まだ勉強が楽しくてしょうがない子どもたちが、その後「勉強嫌い」とならないために「勉強が分かる」という状況をできるだけ長く引き伸ばさなければならないのです。
 先月、小学校入学に際して「たし算は出来なくても良い」と書きましたが、1年を通じて出来ていなくても良いという意味ではありません。入学式では出来なくても良いということだけです。出来ていても、追い越すことなど容易いことだと書いたまでです。授業が始まったら、当然スラスラできるようにならなければいけません。ひき算もできるようにならなければなりません。国語の教科書程度の文は、スラスラ読めなくてはならないのです。つっかえつっかえの拾い読みなど、最低です。そのことを「常識」としなければなりません。
 特に「作文」は、スラスラ書けなくても良いのですが、人が言葉にしたことを正確に書写できなければなりません。「ぼくわ、がこうに いきました」などと書くようでは、これも最低と言わざるを得ません。実は、この状態になってしまった子どもは、海外においては意外に多く見られます。しかも、そうした状態になっていたとしても「まあ、英語が出来るようになったんだから差し引きゼロかなあ」と呑気に構える保護者も多く見られます。これまた最低です。
 さて、なぜ最低かというと、そんなふうにしか読めなかったり、そんな文しかかけないまま2年生・3年生と進むと、いつか必ず取り返しのつかない形で誰かに傷つけられてしまうからなのです。海外にいたということを言い訳に出来るほど、子どもの世界は寛容ではありません。「へたくそ」「変な日本語」「たし算くらい、なんでできないの?」と、それ自体は正しくしかも客観的な評価が下されます。だから、海外にいても日本に帰るならば、日本の学校に進学すべき者としての準備をしておかなければならないのです。その先、小3あたりから勉強が分からなくなってしまえば、彼らにとっての学校は『地獄』と化します。義務教育だけでもあと9年近くもあるというのにです!!それを想像できなければならない親が、刹那主義となっているのなら最低と呼ばず、なんと呼びましょう。「勉強なんて本人のやる気次第だ」と豪語しますか?そのきっかけをあなたが奪ったというのに。地獄に追い込んだのは、紛れもないあなただというのに。  非行少年の9割以上が、「勉強のできない子」です。別に勉強のできる優秀な子を育てる必要もありませんが、勉強をあまりにおろそかに考えると子どもがかわいそうです。基本だけは、といっていたつもりがクラス最低成績になる。そうならない為に日々、頑張らせるしかありません。子どもたちを守ることができるのは、やはり親しかいないのですから。海外であれば、子どもたちは日本での暮らし以上に、親に依存しています。だからこそ、責任重大です。今を大切にするのも良いですが、それがどこまでエスカレートしてしまうか考えた上で判断して頂きたいと思います。  

 

■「つ」のつく間は叩いて教える■

 小学校は6年間。中学校は3年間。近年、中等教育科も出来て中学と高校が一緒になったものまで出来ましたが、義務教育範囲内だけを見れば六三制が占めています。修養に必要な期間と予算との兼ね合いから9年という義務教育期間が決められた。そう説明していただければ、義務教育期間については、それで納得しますね。けれど、その9年を分かつのに、なぜ「6」と「3」なのでしょう?「5と4」あるいは「4と5」だって良かったはずなのに。。。明確な答えは誰からも得られません。
 「13歳からはティーン・エイジャーだから別の学校にしておけってことじゃないの?」などとも言われることもありますが、案外これが答えなのかもしれませんね。けれど、もう一歩深読みすれば、それなりの合理的な考え方もできるのです。フランスの心理学者ピアジェが唱えた「認知発達理論」です。
 ピアジェは「子どもは11〜14に至って、初めて形式的・抽象的な思考ができるようになる」ことを発見しました(これを形式的操作期といいます)。つまり平均的な子どもは、13歳にならないと抽象的な学習(算数ではなく数学、図画工作ではなく美術)を学ぶことができないとされるのです。それまでは感性による学習だったり、具体的なものを使っての学習が中心だというわけです。算数で、線分図や面積図を利用するのも、ここに理由がありそうです。このために、13歳からは別の学校、ということになると考えられます。
 これを躾の問題として考えるとどうなるでしょうか。それは、「11歳未満の子たちに理屈で教えても何も身につかない」ということになります。
 『子どもは何でもできます。よく言い聞かせ、理解させれば、良いことと悪いことぐらい自然に身につくものだ』という言い方があります。性善説とか、アメリカ的な「誉める躾」などではおなじみの考え方ですね。しかし、ピアジェが考えたものは、それを否定しているというわけです。ピアジェだけではありません。
 「『つ』のつくうちは叩いて教えろ。」これは年齢を数えるのに「ひとつ」「ふたつ」・・・と「つ」のつくうちは、いちいち御託を並べず「オシリ、ペン」でかまわない、そうでないと身につかないという意味です。決して暴力を肯定しているわけではありません。もしかするとアナタは、凛とした態度をとるべきということと、暴力肯定の姿勢とを、混同しているようなことはありませんか。子育てに対して怯えているようなところはありませんか。
 考え方によっては、話し合ったり、自分で考えさせたり、自由にやらせて失敗から学ばせたり。。。そうしたことはみんな無駄であり、つけるべき力も一切身につかないともいえるのです。それは「ただ時間が空回りし、子どもは無駄に時を過ごすことが得意」という意味にもなります。
 もっと簡単に言いましょう。それが海外にいたとしても、海外に連れてきてしまったと負い目を感じていたとしても、子どもに対しては、丁寧に教え、やって見せ、できたら誉め、できなかったらたしなめ、それでもできなかったら叱り、どうしてもダメなら「オシリ、ペン」。それで良いのではないでしょうか。  

 

■良いものだけを見させる■

 道徳の授業が批判されているそうです。「偉人や立派な人の話なんか聞いてどうなるのか。」「実際の世の中、そんな奇麗事では通らない。」ということだそうです。またある人は、こんな話もしていました。「大学生になって急にお酒なんか飲むから無茶な飲み方をして、急性アルコール中毒になんかなってしまって死んだりする。そういう危険に遭わせないためにも、ウチでは今から少しづつお酒を飲む練習もさせているのよ。」と。別な人はまたこういいます。「確かに法律ではいけないこととなっているんだけど、結局人間は自己責任で生きていくしかないでしょ。高校生のお兄ちゃんは家でタバコを吸うことも多いけど、自分の責任で吸っているのだからそれもしかたないのよ。外で吸うのはさすがにマズイけど、家の中だけよという条件で、我が家では許可しているの。」と得意げに語ります。
 そんなバカな話はないでしょう!悪いことはいつでも学べますが、良いこと・正しいことは意図的に教えていかないと、学ぶ時期を逸してしまうかもしれないのです。優れた鑑賞家は、素晴らしいものだけを見て育ちます。古美術の鑑定士たちも、良いものだけを見て感覚を築くのです。決して、良いものと悪いものの双方を見ながらということではないのです。良いものだけを見続けた目に、まがい物・偽もの・レベルの低いものは簡単に見えてくるのです。逆に悪いものばかりを見た目は「腐る」のです。
 子どもたちには良いものだけを見る権利があると思ってください。偉大な人々の美しい行いに触れる権利があるのです。(その人の醜い面については、大人になってから学んでも遅くはないのです)市井の人々のさりげなく美しい姿を、じっとみつめる権利があるのです。美しい行いを見、隠された善意を見、正しいものだけを見続ける権利があるのです。

 

■自立するということ■

 自立には三つの側面があります。「経済的自立」と「生活自立」、そして「精神的自立」です。
 「経済的自立」というのは説明の必要もないでしょう。自分に必要な収入を自分の力で得るということだから、低学年の子どもたちにとってはまだまだずっと先のことです。分かりにくいのは、「生活自立」と「精神的自立」です。
 「生活自立」とは、簡単に言えば生活に役立つ技能を手に入れるということです。トイレットトレーニングから始まって食事を自分で食べられることや着替えができることを指します。学齢期になれば一人で学校の用意ができることや宿題などを自ら進んでやり終えることなどを含みます。大人になってからは、例えば市役所で住民登録をすることや地域の人々とのちょっとしたトラブルにも対応できることなどが挙げられます。これについては、早ければ18歳ごろから、遅くとも20代前半までには終えておきたいことです。本来それは難しいことではないはずです。「生活自立」の大半は『言葉で教え、辛抱強く待つ』という姿勢だけで、ほぼ完全に達成できるからなのです。年齢相応の目標を持たせれば、それで事足りるのです。
 難しいのは「精神的自立」です。そしてこれがすべてといっても過言ではありません。「精神的自立」というのは、一言で言えば「ある程度社会と調和した『統一的な自分』を持つ」ということになります。『統一的な自分』というのは自分の中に矛盾がないということで、例えば「高校には行きたくないけど、就職もしたくない」といった願いを持たないということなどを指します。また、我慢はしたくないけどつまらない仕事には就きたくない、金は欲しいが働くことは嫌だといった「矛盾した気持ち」に振り回されないことなども含めます。
 ただし矛盾がないといっても、「死刑になってもいいから人を殺したい」とった矛盾のなさは認められないので、そこで「ある程度社会と調和した」という前提条件が必要となります。別の言い方をすれば「より高い価値のために、別のものを我慢する」ということに他なりません。
 さて、精神的に自立できて『いない』人間を見つけ出すのはさほど難しくありません。彼らは 『統一された自分がない』=「自分の中に矛盾がある」から、先ず選択音痴なのです。何かを選ばなければならないときしばしば迷い、多くの場合選択そのものを回避してしまいます。ズルズルと問題を先送りにし、その挙げ句の果てに「何も選択しない」という道を選択し、その結果を突きつけられます。本人にしてみると「選ばなかったのに責任を迫られる」わけですから非常に不本意で、その責任までも回避しようとします。つまり責任転嫁をするわけです。自立できていない人間を見つけ出す目安はそこにあります。
 彼らはしばしば失敗の責任を他人のせい(特に親のせい)にするわけです。その例から考えると、もし精神的に自立した子どもを育てたいのならば注意すべきことは明白です。「やったことの責任は常に本人に取らせる」「小さいときから躾る」特に親のせいにしてことを済ませようとするなら、厳しくつき返さなければなりません。「誰が悪いの!」と、です。ここで「海外に連れてきてしまったのは親の責任で、子どもには何の選択肢もなかったわけで。。。」とひるんではいけません。毅然とした態度で臨まなければなりません。
 子どもが欲しいというオモチャがあるとします。保護者であるあなたはお店の方に、丁寧に、そのオモチャの内容を尋ねなければなりません。それが子どもにとってふさわしいものなのかどうか、吟味しなければなりません。そのやりとりを、子どもはそばで「じっ」と聞いている必要があります。お店の方との、きちんとした日本語で、きちんとした対話を我慢して聞いていなければなりません。それが我慢できないというのなら、おもちゃの方を我慢しなさいと、あなたはいわなければなりません。
 子どもが新たに見たいテレビ番組が始まるなら、今日まで見てきた別の番組を我慢しなければならない、とあなたはいわなければなりません。今まで見ていた番組を諦めることができないのなら、新しい番組を諦めるしかないと教える必要があります。全部はできないと教えるのです。ひとつだけ、自分にとって価値あるものを選択する、ということを教えなければなりません。クリスマスだからといって二つのおもちゃを買うことはできません。一つを選んだとき、もう一つは諦めなければならないのです。そして一度選択してしまったら、何があろうと、(次の誕生日でもこない限り)諦めたもう一つを、手に入れることはできないと教えましょう。それが精神的自立の一歩であり、全てです。

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