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2005年10月号 「素直」

 成績を上げるために、何が必要なのでしょうか。

 環境。とても大切なものではないかと考えます。学習に適した環境がなければ、勉強どころではありません。整理された勉強部屋。静かな空間。調べものが簡単にできる道具が整備されて、逆に誘惑するものが存在していないところ。自習室や図書室を想像すると簡単です。あの、静寂さが欲しいですね。ご家庭における子ども部屋には、そこに「くつろぎ」「自分だけの空間」というものが存在しますので、100%勉強だけの環境とはならないでしょう。それはそれでいいと思います。

 勉強の環境という点においては、ここで二派にわかれると思われます。勉強は塾でするものという組と、自宅学習中心にすすめていく組です。もし自宅学習派であれば、可能な限り100%の環境を目指して整えていく必要があります。もし塾派であれば、既に環境はほぼ揃っていることになります。

 そうはいうものの、実際はどちらでも良いのです。

 大切なことは、勉強すること。

 そう。勉強しなければ成績は上がりません。成績向上を「願うだけ」では、決して成績は上がりません。そしていつもお話ししているように、自分なりに頑張ってもダメ。周り以上に頑張らなければ、合格・不合格がある試験や、クラス分け試験のような、客観テスト成績・相対成績は向上しません。    

 さて、視点を変えてみましょう。いつもはこの路線から「危機感を持ってください」という方向にお話ししてきました。これをちょっと変えてみます。    

 性格と成績との相関関係。今回は、ここに焦点を当ててみます。例えば巷でいわれる「性格が曲がるくらい勉強させては、いけないよ」「勉強だけが取り柄という子どもには育って欲しくない」ということについて、考えてみます。塾屋ではタブーですよね、普通は。あえて、ここに挑戦です。    

 「ガリ勉はダメよね」と言い切る方がいらっしゃいます。この言葉に対して、私たちは受験屋ですから、ガリ勉のことは肯定します。勉強ができること。これは入試突破の絶対条件です。だから肯定します。悪いことではない、と。私たちは「たかが塾」ですから、人間形成云々を語る資格はありません。私たちは人格者でもなければ、何かを説く人間たちでもありません。単なる受験屋。だから最初に「受かってナンボ」という視点でものを考えます。ガリ勉だろうが、性格が悪かろうが、関係ありません。問題行動が、例えば面接などで引っかかる可能性があれば厳しく指導します。採点する学校の先生に対して心証を悪くする可能性があれば、そうした状況に陥らないようなテクニックを伝えます。それが塾であり、それ以上でもそれ以下でもないと考えています。    

 反面、私個人としては一人の父親です。父親としては、我が子に性格が悪くなって欲しくはありません。もし、この気持ちを校舎にいるときに、つまりは受験屋である私の時に前面に押し出してしまったら、進路指導している際に何も口にできなくなります。だから、私たちは校舎では受験屋に徹します。    

 では、究極に考えてみます。成績が良い生徒は性格が悪いか。成績が良くなると、性格が悪くなるのか。数は少ないけれども、たまに「性格も良くて、成績も良い」という生徒がいるけれど、それは特殊なことなのか。これまで出会ってきた生徒のことをいろいろ思いだしてみました。まずは自分自身の子どもの頃を思い出してみました。みなさんも思いだしてみてください。    

 日本国内であっても海外であっても、昔も今も、「嫌なヤツ」といわれる生徒は掃いて捨てるほどいます。テストでは決まってクラス1番。多少成績が落ちる生徒が、彼に勉強を教えてもらおうと質問する。するとニヤニヤ笑いながら、「こんなのわからないの?すっげー簡単じゃん」と言ってバカにする。鼻で笑う。現実、こうした態度を取る生徒は、海外校舎の方が日本国内より多く見られます。なぜでしょうか。それは、普段は現地校で思うように発言もできず、できることも限られ、ストレスがたまっているから、といわれます。日本語の通じる環境は、自分自身を取り戻すことができる唯一の場所。だから日本語環境に戻れた瞬間に大爆発。ストレス発散の場所になっているわけです。    

 こう書くと、「成績が良い奴は必ず性格が悪い」とレッテルを貼ることになってしまいます。みなさんの周りにも、現実的に、成績の良いけれども意地の悪い子がいたはずです。これらにより「成績が良い奴は性格が悪い」ということが、やはり実証されてしまったことになります。これらから、「勉強ができても、もし、ウチの子が性格悪い憎まれっ子になったらどうしよう?」とご心配になる気持ちは、父親としてはよく分かります。    

 さて結論に入りましょう。成績が良い生徒は嫌なヤツなのか。意地悪な生徒は成績が良いのか。我が子を性格の悪い子どもにしてしまうことになるのか。はたまた、多少成績が悪くても、性格の良い人間に育てるべきなのか。    

 答えはちょっといい加減なものになってしまいました。

 何人もの子どもたちを見てきて「これらが融合してきた」というのが結論です。どういうことでしょうか?    

 子どもには、本当にいろいろなタイプがいます。もちろん、前述のように自慢げで、人を見下したような、嫌なタイプの子どもも現実に存在します。学校のクラスでは1番というような、また、海外生活では「補習校では常に1番だった」と自慢する生徒の中に、こういうタイプの生徒が多く存在するような気がします。  

 日本国内で指導していた時のこと。ある学年の選抜クラスを担当したことがありました。日本の進学塾で、しかも学年で何クラスもある塾で、その塾内でのトップクラスというのは、ご存知のように優秀な連中の選りすぐりです。たとえ学校のクラスで1番であっても、塾の選抜クラスには必ずしも入れません。選抜クラスというのは、その地域内でトップ30などの連中が集るクラスなのです。  

 さて、そのクラスを担当すると決まったとき、正直にいえば、嫌でした。理由は簡単です。地域でトップ30の「嫌な奴ら」の集まりです。学校の1番にもっと輪をかけたような、獣のような連中ではないかと勝手に想像していたからです。それもクラス全員が獣。「先生、こんなのもわからないの〜」などと突っ込まれたりするかもしれないと、怯えていたのも事実かもしれません。授業準備はいつも以上に慎重に、相当の時間をかけて授業に臨みました。憂鬱な気持ちで、そのクラスの授業に行ったのを覚えています。  

 教室に入ったとたん、視線を感じます。あ〜、嫌だなと思い、恐る恐る教壇に立ち、授業を始めました。全員が見ています。誰一人よそ見する生徒はいません。そして、みんな目がニコニコと笑っているのです。ほめ殺しというのは聞いたことがありますが、「ニヤ殺し」かと思ってしまいました。  

 ところが、これが違ったのです。どの生徒も私の姿を見て喜んでいるのです。そう、全員が全員、非常に友好的な眼差しなのです。その学年に限らず、選りすぐりのトップクラスの授業は本当にやり易いのです。授業の反応もいいし、冗談もうける。そして、生徒も慕ってくれる。そのくせ、成績はメチャクチャ優秀で教えることによって、成績も上がっていく。彼らの授業態度・脳は本当に、スポンジ状態です。それも台所にあるような小さいスポンジじゃなくて、とてつもなく大きなサイズのスポンジのようです。覚えてこいということについては、ほぼ100%覚えてきます。だから連続性のある授業ができる。10教えるところを7教えると、あとは自分で10まで高めてしまう。だから更に高度な内容の授業ができる。さらに、こちらが指示したことはきちんと守る。勝手なことをやらない。もし何かあったら、事前に相談しにくる。決して事後承諾などということをしない。そんな生徒たちです。これは、教える側にとって、本当に有難い連中といえます。こちらも自然と一生懸命になっていきます。    

 この選抜クラスの生徒たちは、私が知っている「勉強のできる嫌味な生徒」と何が違ったのでしょうか?    

 トップ選抜クラスを受け持ってすぐにわかりました。成績が良いというレベルが格段に違ったのです。嫌味な生徒はせいぜい学校のクラスで1番レベルということです。狭い狭い社会での1番程度です。彼らが見ているのは、周りの数人。井の中の蛙よりも狭いかもしれません。ところが本当に優秀な生徒は、嫌味など全く感じません。昔のことを思い出して「アイツは成績も優秀だったし、とてもイイ奴だったなあ」と思った方に一言。そのお友達はかなりの確率で本当に優秀なレベルの生徒だったと思います。勉強ができて嫌味な奴というのは、中途半端に勉強ができる生徒、ということなのです。心の中で「ウチの子は成績優秀」と思っている方は、そこはキッチリと分けて考えないと落とし穴にはまります。落とし穴?どういうことか、おわかりですか?本当にできる子たちの集団の中に入った瞬間に、落ちこぼれになるということです。成績が急降下するということです。    

 さて、勉強ができるという『レベル』が違うのはお分かりになったとしましょう。では、そのレベルの違いはどこからくるのでしょうか?

 経験的にいうと、それは、「素直さ」です。本当に優秀な生徒は、「とても素直」なのです。選抜クラスに入る前で留まっている子どもとは、素直さが決定的に違います。妙なところでプライドがあり、そのことがスポンジになることを阻止している。素直さというのは、勉強のセンスであるとか、頭のデキがということではないのです。「素直」でない子どもは、必ず頭打ちになる。これは今までの経験から例外はありません。大差をつけて走っていても、必ず途中でガクッとペースダウンするのです。

 でも、素直といわれてもわかりにくいですね。具体的に言うと、どういうことなのでしょうか。

 例えばこういうことです。職員室に座っていると、子どもたちの素直さが直感できます。素直な生徒は、玄関を入って必ず職員室を向いて元気な声で挨拶をしています。素直ではない生徒は、決して職員室を見ません。実は、それをねらって、enaの職員室は作られています。子どもたちの素直な笑顔をまず見るために、職員室がオープンになっているわけです。

 別な例でいえば、優秀な子どもは、学校の先生や塾の先生を色メガネで見ない。「カモン!で、今日はなにを教えてくれちゃいますか!」という感じで大人と接していきます。いえ、先生に対してだけではなく、大人というものを色メガネで見ないのでしょう。もっと言えば、大人に対して失礼じゃないといえるかもしれません。大人への無条件の信頼といえば誤解を招くかもしれませんが、でもそれに近い感じだと思われます。だから、大人の言ったことがストレートに子どもに入っていく。どんなことも吸収していく。塾でも、学校でも、家庭でも、誰からだって吸収する力を持つことになるのです。ただ入れてお終いではなく、すぐに飲み込み、血肉としていく。覚えることに抵抗感がないのです。だからこそ、成績が上がり続けるのです。入試に使う知識など、たかが知れています。そこにかしこに抵抗感を残しているようでは、当然成績向上など望めません。巷でよく言われる「考える生徒を育てよう」としても、考える前に「常識」は身につけるべきなのです。基礎知識があり、そこから知識を高めようとする姿勢を持っている人間だけが、考える生徒となれるのです。実は簡単なことです。幼児にいきなり「考えろ」といったところで、できることも限られているということです。だったら、きちんと教えればいい。それをどう使うのか、使い方も教えればいい。そして、ある程度独り立ちができるようになったところで、自分でやらせていけばいい。子どもたちにとって、受験とは、そんな自分を作るためのステージです。    

 さて、海外で優秀な成績を収める子たちは皆、抜群に性格の良い子たちです。決して、勉強だけができる嫌な奴でも、勉強しかできない堅物でもありません。それは私の宝ものである、卒業生たちが全てを語っています。これらのことから、私たち受験屋は、自信を持って言います。『親としても、成績が良い子を育てて欲しい!ガリ勉だろが、成績向上を常に意識して欲しい!』と。    

 ここで大切なことがあります。中途半端はダメだということです。中途半端で満足するなら、最初から成績が良いなどと目指してはいけません。嫌な生徒に必ずなります。生命力の乏しい、妥協しかしない子どもを作ります。勉強法の根底にあるのは、「確実に」そして「永続的に」ということです。「永続的に」というところに必要なのが、素直であるということでもあるのです。途中で諦めたり、すねたり、自信があるとかないとかと迷ったりすることなく、あくまでも「ハイ!覚えたよ!」と、素直にできる子たちが、優秀な成績を残してくれているのです。    

 最後に、例外も考えておきます。確かに成績が優秀な奴の中には、生意気な生徒もいます。ただ、それは周りの大人が作り出してしまったのです。ここでいう大人とは、親だけでなく先生や、子どもと関係がある全ての大人を含みます。  

 子どもは大人の言葉を真似して大きくなります。どういう状況に使ったらよいのか、敏感に察知して使っていきます。使えそうなところには積極的に使おうとします。生意気をいう子どもがいます。でも生来持っている語彙などありません。誰かが、どこかで使った言葉でしかありません。友達から仕入れた言葉かもしれない。でも、その友達は?その言葉を誰から仕入れたのでしょう?子どもが作った言葉ではありません。素をたどれば、やはり大人から仕入れたわけです。つまり、「生意気な子ども」は周りの大人たちがつくりあげるものです。だからアメリカでも、日本でも「子どもの前で使ってはいけない言葉」「してはいけない態度」などがあるわけです。子どもの前で、学校の先生の悪口を言ったりすれば、必ず子どもは真似をします。小学生がキレやすくなったとか、自己中心的な言動しかできなくなったとか、学級崩壊だとかが問題になっていますが、実は、大人の真似でしかありません。まさに「子どもは大人を映す鏡、社会を映すの鏡」だと、私は思います。    

 子どもが素直になるかどうかについて、あなたはどう思いますか?私たちは、「本当に成績の良い生徒は、素直な生徒」だと思います。そして、その素直さは、周りの大人の背中が手本になり、作られていくものだと日々痛感しています。

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