まえのページにもどる> <もくじにもどる

2011年4月号 「入試国語は大人への架け橋」

 

 海外にいると、子どもたちの日本語力の低下が気になります。ましてや受験生となると、本当にこれで合格できるのかと不安になります。「英語の力さえあれば、受かるのよ!」と噂を鵜呑みにできれば良いのですが、なかなか、そこまで割り切れません。今月は、日本語の力を考えてみたいと思います。  

 志望校の「一般受験用の」国語の過去問を見てみましょう。中学受験であっても、いわゆる「大人のものの見方が含まれている文章」が多々出題されていることがわかります。早速、最近の中学受験で使われた作品を見てみましょう。  

 

■(麻布中2007年)浅田次郎 『霞町物語』より「青い火花」

 祖父は、明治生まれの昔堅気で傲慢な江戸っ子の写真師である。新しい時代の要請で都電が廃止になることが決まり、都電の運転手の順ちゃんが制服姿の記念写真を撮りに来るが、老いて腕の衰えた祖父は撮影に失敗した。愛する都電の最後をかざる花列車の姿を撮ることは祖父の写真師人生の総決算だが、祖父は都電が霧の中を全速力でかけぬける難しい位置で撮るといってきかない。しかし出来上がった写真は驚くほど見事なものだった。祖父が周りのことがわからなくなった頃に父は祖父が望む感情のある写真を撮るがしばらくして祖父は息をひきとった。   

 

■(品川女子2010年、2回) 石田衣良 『再生』より「火を熾す」

 定年退職して5年の光弘は、公園で焚火の世話のボランティアをしている。自立神経失調症で事務機器メーカーを休職中の青年治朗や不登校の壮太は、公園で光弘の作業を手伝ううちに次第に癒されていく。「…光弘は不思議だった。自分の目から見ると筋のよさそうな人間ほど、不登校だったり、長期休職をしていたりするのだ。今の日本で人並みに普通の組織に籍をおくのは、それほど困難なことなのだろうか。もう自分は一生組織の世話にならないだろう。それがありがたくもあり、治朗や壮太にはすまない気にもなった。…」  

 

 例えば上記「品川女子中」の入試問題では「治朗や壮太にすまない気にもなったのはなぜか、説明しなさい」というような出題がありました。女子中では「心情を読みとる」という問題が多く見られますが、少年少女文庫からではなく、大人が読むような著書を使っているところが帰国生には驚異です。SFCのような「超長文」ということも帰国枠受験生には驚異ですが、それとは違って「長いだけではなく、内容が非常にオマセである」ということが、純粋培養されてしまいがちな帰国生には「全く分からない文章」になりがちです。さらに、帰国枠優遇措置を使って、まんまと入学できたとしても、一般性との混合クラスであれば、「この文章を読みこなした生徒と机をならべる」というところに、その後の不安を感じるところがあるということです。

 

■(光塩女子2010年1回) 重松清『かわいげ』

 二年前に母親を亡くした小4の石川フミは、父の再婚で石川マキと姉妹になり、新しい母とマキと生活を始めてひと月になる。フミが新しい友達と捨て猫のゴエモン二世にエサをやって抱き上げると、マキはフミたちの自分勝手を激しくなじって猫が逃げた茂みに石を投げた。帰宅したフミは涙のあとがあるのをお母さんに気付かれ、マキのことを、知らない六年生の女子に置き換えて事件を話す。お母さんは自分に味方をしてくれると期待したが、母はその女の子は自分が最後まで面倒を見られないものには中途半端なことをしちゃダメだということを言っていて、「甘えて寄ってくる猫を抱っこしてあげるのも優しさだけど、わざと追い払って、人間の怖さを教えてあげるのも優しさ」だとやさしく諭した。フミにどちらの優しさが正しいのかと問われると母は「正しいことって、一つきりじゃないのよ」とおとな同士愚痴をこぼし合うように笑った。   

 

■(浦和明の星2004年1回) 猪口邦子「パールハーバーの授業」

 ブラジルのアメリカンスクールに通う私は、大好きな歴史の先生の授業が第二次世界大戦にさしかかることを恐れていた。教科書に、パールハーバーの奇襲攻撃を、日本が悪魔的な世界征服の野心と狂気をもって、自由と正義を体現するアメリカに愚かな戦いを挑んだとあるためだ。クラスでただ一人の日本の子として祖国批判の矢面に立たされることに苦しみ学校を休もうとするが、先生は授業で、資源の乏しい日本が立たされた経済的苦境触れるなどし、ただ一人の生徒のために教科書と大幅にちがう授業を行った。先生は、多くの原因があって起きる戦争を単一原因論に短絡させるのは歴史への暴力だと説き、私はかつてないほどパールハーバーを真剣に考える気持ちになった。日本非難の矢面に立たずにすんだことに安堵する子供の私の中に、国際関係の複雑な絡み合いを解明し平和にかかわる仕事を夢見る「もうひとりの私」がめばえていた。   

 

 一般受験の問題ですから、帰国枠受験を利用すれば、ここまで「大人のものの見方」ができる必要はないでしょう。しかし、まず中学入試でいうと、多くの学校では「これらの文章に慣れている生徒と机をならべる」ということがあるわけです。これは帰国枠受験で合格し、進学してから判明すること。極端に言えば、4月の新学期開始から「落ちこぼれ」となることもあるわけです。国際学級であれば周りも同じような「ちょっと幼い国語力」ですから、みんなで一緒に頑張ろう!ということになりますが、多くの学校で採用している「帰国生混合クラス方式」であれば、クラスの中に帰国生は一人か二人。そうなると、周りは全員大人の視点がとれるのに、自分だけが「ワカラン」ということになることもあるわけです。

 高校受験では、帰国枠も一般入試と同じ問題をおくことがほとんどですから、当然、ここに例をあげた文章レベルは読みこなせなければいけません。古典も絡んでくる学校がありますから、さらに上のレベルの「日本語力」を身につけておかなければばりません。海外にいて、純粋培養され、極端には退行現象も見られる子どもたちに、これらを突きつける。それが受験の現実。恐怖、です。  

 もともと、私立中学が欲しい生徒というのは「背伸びができる生徒」といわれています。大人のいうことが分かる、大人と対等に話すことができる6年生が欲しいということです。高校受験であれば、それ以上です。義務教育では無いわけですから「勉強しに来るんでしょ?日本の学校で授業を受けるんでしょ?」という姿勢です。アメスクやインターに行くわけではありません。だからこそ、こうした文章は使われても不思議はないわけです。

 多くの学校では「帰国生にはクラスのリーダーシップをとってもらいたい」「学校の中を活性化する起爆剤になって欲しい」と帰国生に期待します。そうなると、思考が幼すぎたり、語彙が極端に少ないと、リーダーとしては見てくれません。クラスの中で異端児扱いされてしまいます。当然、リーダーには成れません。クラスから阻害されるということもあり得ます。逆に積極的な性格の場合は、学級委員や文化祭実行委員など「便利屋」として使われてしまうと言うことも聞きます。みんなが嫌がる訳を一手に引き受けてくれるだけ、の存在になってしまうかもしれません。人をまとめる能力と大人と対等に話すことができる「国語力」とは、どうやら深い関係があると思うのです。  

 もう少し前述の文章を、受験屋の視点から分析してみましょう。近年の出題文では、登場人物の人生や心情をリアルに描いた、厚みのある内容を持った文章の出題が増えてきています。麻布と品川女子の問題例では、物語の時代は違いますが、真面目に歩んできた善意ある大人が、老いや社会の大きな流れといった、自らの努力でいかんともしがたいことの前で、自分の位置を他に譲り渡すしかなくなるという「悲哀」が細やかに描かれている点で共通するものがあります。  

 「学校」というと、子供たちに努力の尊さを教え、とかく明るく積極的な言葉を投げかける所というイメージがあります。しかし近年の私立中学・私立高校の入試の一部では、「精一杯努力すれば、その分成功を勝ち得て、幸せになれるのだ」といった単純な世界観が成り立たないところで展開していく、いわば「苦さのある文章」の出題が増えています。そして、困難な状況の中でただ悲嘆するのではなく、なんとかして現実との折り合いをつけ傷ついた魂を再生し、自分なりの歩みをはじめるといった「心のドラマを描いた作品」が出題文に多く見られることも顕著な傾向といえます。  

 これらの傾向は、当然、時代をうつしていると言えます。あらゆる点で先行き不透明であると言わざるを得ないこの時代。その環境で成長し、いずれは自分の力で世の中を渡っていかねばならない子供たち。彼らには、あらかじめ明快に整理された物語に現実をあてはめてみせるだけでは不十分であるのかもしれません。そうすると、どのような状況にあっても現実から目をそらすことなく、自分なりの人生のストーリーを模索できるような強さとしなやかさを持って欲しいと、学校側が思うわけです。この願い・思いが、国語の出題文選びに現れている結果ではないでしょうか。    

 光塩女子、浦和明の星の問題では、判断や価値の基準が単純でない事がらが扱われており、複雑さに耐えるような思考力を促す要素があるといえる問題です。どちらも等身大の子供の視点で描かれてはいますが、子供の単純な世界観を脱け出し、大人の世界へと歩み出す子の心の成長を描きます。読者が子供であれば、共に大人の世界へといざなわれていくような内容です。  

 光塩女子では、『あなたが「正しいことって、一つきりじゃない」と、感じたり考えたりした経験を二〜三行で書きなさい』という作文があり、浦和明の星でも『「私」のどのようなところが「子供の部分」といえるのですか。分かりやすく答えなさい。』と問われています。つまり、記述力も求められています。    

 こうした大人っぽい問題文でも、隅々まで大人と同様にとらえられなければならないということでは勿論ありません。受験生はあくまで問いに解答できればよいのです。いたずらに心配する必要はありません。しかし、我々は今、海外に暮らしています。普段の生活の中で、学校生活や友人関係で体験する出来事の中に、どれだけの日本語があるかといえば、非常に限られている。そのことを意識しなければなりません。おうちの中で、お父さんやお母さんが「日本語と英語のチャンポン」を使っているようでは、こうした「大人の日本語の裏側」は想像できるようにはなりません。日本のテレビ番組、インターネットを使って得られること、塾でのテストやテキストで出会う文章など、いろいろな物事に対して、お子さんの前で大人の思うことを口に出してあげるのは有効な対策となります。ご自身が評価的な感想を持たれることがあれば、そう感じた理由までも積極的に口に出してあげることも有効な対策となります。その際お子さんに理解できそうな日本語語彙や内容をあえて少し踏み越え、大人ならでは浮かぶ表現や物事の捉え方を示してあげるようにするとよいでしょう。これは、お子さんが幼児期から気軽に実践できる教育方法ですが、確実に国語の力を高めることができます。そして、そこで「きちんとした日本語」で話しかけることにより、バイリンガル教育では常識となっている「一人一言語方式」にのっとり、子どもたちが言語習得を「きちんと」していくことになるのです。  

 小学生の場合、お父さん・お母さんが横について勉強をご覧になることが多いでしょう。その時は、お子さんがひとりで学習するときに取り組むものよりも一段大人っぽい内容の問題にチャレンジしてみることをお勧めします。勿論、それ以前のことがあります。該当学年の語彙よりも、はるかに少ない語彙しか無い子どもが宿題と格闘するときは、かみ砕けるようにしてあげる必要もあるでしょう。でも、いわゆる難関校を受験させようと思うなら、進学させたいと思うなら、前述のような大人の文章を読めるようにしていく必要があるのです。その訓練として、塾からの「大人の文章」を前に、本文の流れを、問題で問われていないことにまで触れながら、ああでもないこうでもないと大人と子供がそれぞれの意見を言い合って時間をかけて読み味わってみてください。中学生以上の場合、横について勉強を見る必要は無いとは思いますが、限られた日本語環境において、日本語での意見交換は非常に重要になります。やはり、例えば食事の時などを利用して「ああでもない、こうでもない」と親子でやり合うことができれば、ものの考え方に対しても成長が見込めるはずです。実際、こうした学習方法を定期的に設けた結果、文章への対応力が飛躍的に伸びたケースもあります。もともと中学生以上の国語力の目指すものは、新聞をきちんと読むことができ、意見を持つことができ。かつ、大人との対話ができることです。生活英語ができるようになったとしても、それらに穴が開いてしまったら、どうでしょう。日本語が中途半端になります。英語も高度な「大人の英語」までは使えず、結局はどちらの言語も中途半端となります。これをハーフリンガルといいます。  

 enaワシントンDCでは、どの学年においても、次のステップを意識し、日本に向いた指導をしています。海外で頑張る子どもたちを応援する塾。それが私たちです。

 

TOPへもどる