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2004年5月号 「読書から考える」

■専門家は間違う?!■

 バブルの崩壊を予言した人はほとんどいなかったのに、いまだに経済の専門家は沢山いて、もっともらしい言葉を並べています。当時は予測できなかったのに「あれは起きて当然だった」と平気な顔していいます。今、身体に良いと脚光を浴びているイワシなどの青魚を、昔の栄養学専門家は価値が低いと馬鹿にしていました。原子力、コンクリート、金融、医療、そして教育と多くの専門家がいて、そして多くの専門家たちが間違ってきました。にもかかわらず専門家は儲かり、たいていの専門家は責任を取りません。専門家の扇動に乗ってしまった多くの人々は、ただ馬鹿を見ただけです。消息不明になった専門家を、ほとぼりが冷めた頃になるとジャーナリストが追いかけます。あれはいけなかった。あの専門家は間違ってきた。そういって批判します。でも、批判をするだけなら簡単です。現実と過去に行ったことを照らし合わせさえすれば、誰でもできる作業です。新たな専門家を用意して前の専門家を批判して終わり。同じことの繰り返しのような気がしませんか?何の発展もないような気がしませんか?結果、多くの人々は専門家に煽られて焦ってばかりいる消費者となります。
 机上の空論を説く人が多いと感じませんか。現場からの理論には滅多にお目にかかれません。理想を語ることは実は簡単です。「これは大切、あれも大切」と欲張ることもできます。主人公は子どもたちなのに、大人の理論で語ってしまう教育論者など良い例です。こうした頭でっかちな専門家を信用しすぎるとロクなことがありません。教科書削減問題だってそうじゃないですか。あれだけ大騒ぎしたくせに、結局1年で削減したことを撤回し削除内容を復活させるのです。迷惑を被ったのは子どもたちです。
 専門家のお説教(の勢い)に負けてしまわないように、少しは自分で考えて行動しなければなりません。これが私たちのいう「まず、お帰りになる地域の教育事情を調べてください」ということです。「お子さんの客観的な学力を測定してください」ということです。専門家のいうことは一つの意見にとどめるべきです。特に海外生にとっては様々な教育背景があるため、一般論など通用しません。専門家のいう一般的な意見は、我が家においては間違っているということも多々見られるわけです。私たちが発信する情報も、一つの意見として取り入れるにとどめてください。間違っていることもあるのです。私たちは現場主義ではありますが、帰国子女受験の専門家であることは間違いありません。だったら、間違っているかも知れないですからね。  

■読書離れの本当の理由■

 作文を書かせると子どもに文章力が付き本好きになる。本好きになると読解力も付く。受験にも有利。補習校でも家庭でも、作文!作文!と連呼する。専門家が「日記を書かせましょう」と断言することもある。だから「課題図書だ!」という。
 子どもの読書離れは年々進んでいます。これは事実です。日本国内でも、いわんや海外でも。だいたい海外では日本語自体に触れる機会が減るわけでしょう?特に小さい学年であれば、英語の習得に対して、ものすごい速度で反比例していきます。どんどん日本語脳から英語脳に変わっていきます。知識は最初に英語から入って、後から日本語に置き換えるようになっていきます。そういった「日本語インプット作業が激減している」という状態なのに、アウトプット(つまり作文)させようとする。出てくるものなんて、あるのでしょうか?
 例えば「は」も「わ」も、よく分からない小学低学年に無理矢理作文を書かせて何になるのでしょうか。日本語・日本文化から遠ざかっていた子どもに、いきなり「夏目漱石」を読ませて、その感想文を書かせようとしたって何になるんでしょう?「山吹色」も「長者どん」がなんだか分からない生徒に、いきなり「フレッシュな文章を読ませ、感性を磨く」などといっても、子どもたちが持っているものが少ないのだから、出てくるものなんて限られます。言語は文化です。文化を背負っていない子どもに作文を書かせても、字が並んでいる原稿用紙を作らせているだけです。
 いわば「子どもをぞうきん絞りしている」ようなものです。最初のうちは、少しは絞れるでしょうけれど、3タイトルも書けばカツカツで、もう何も出てきません。よく考えてみてください。映画を見たら感想文。デートをしたら感想文。もし何をしても作文を書かされたら大人だってウンザリするはずです。大人がウンザリなのに、子どもにやらせる。そして子どもが「読書離れ」では、何ともいいようがありません。
 「5歳の子どもにピッタリの本がありますよ!」「3年生になったら、コレを読んで感想文を!」「夏休みには、是非コレを読ませてくださいね!」そういう専門家がいます。補習校でもそういわれるから鵜呑みにする。そこで自分の子どもに読ませようとすると、たいして関心を示さない。薦められた本を喜ばない我が子。すると親はどう思うか。「私たちの育て方に何か問題があったのかしら???」なんてことになりかねません。
 「6年生にはこの本だ」という意見をとるか、「子どもの面白い、あるいはつまらない」という意見を尊重するか。よく考えてください。主人公は子どもたちであって、評判の高い本ではありません。これは問題集や参考書も同じ。先輩がこうだったからといって、我が子も同じにする必要はありません。◎×高校には、こうすれば受かる!と聞いても、我が子が同じ路線を歩いて合格するとは限りません。
 初めの一歩を掛け違うと、後はずっと迷い続けて子育てがストレスの素になりかねません。読書離れにしても、勉強習慣が未完成なのも、何か間違っているところがあるからだと、周りの大人が気が付かなければなりません。  

■読書好きな子どもを作るのは簡単■

 「良い本」を与えれば子どもは読書好きになると信じて、熱心に読み聞かせをした。「読書好き」な子どもになると国語の読解力も成績向上すると聞いていたから、小さい頃から一生懸命やってきた。にもかかわらず、子どもは本好きにはならなかったし、試験で読解問題の点数が伸びていない。なぜか。それは今までの読書運動が重要なことを落としてきたからです。『能動と受動』。そこに鍵があります。
 本好きな人は本に対して能動的です。「次はどんな本を読もうかな」と自分から動くわけです。積極的に自分で、自分が読みたいと思う本を選ぶ。これを抜きにして本を楽しめる人、読書好きな人にはなり得ません。反対に本を与えられてばかり、受け身の状態では、子どもが読書好きになる日は来ません。海外にいるからということを理由にして、子どもを受け身の状態にばかりしていたら読書好きな子どもには決してなり得ないわけです。これって勉強に対しても同じことが言えると思えませんか?
 本が好きな人は、本の中で旅をします。知識を得る旅です。本来体験を通じて体得するはずのものを、本の中で擬似的に体験するわけです。これにより知識が増えます。こうした読み方に対して、字面を追うだけの読み方があります。読み終わって、面白いともつまらないとも感じない。知識も何も残らない。そんな読み方をしたことがありませんか?大人の場合、それは本に対して責任を押しつけることができます。「そういう内容だった」と見下すことができます。でも子どもたちにはできません。できないので、逆に習慣になりやすい。でも読めといわれるからとりあえず読む。終わったから次の本を与えられる。こうした字面を追いかけるだけの読み方をすると、読みやすいといわれている小説でさえ行間が読めなくなる。「いわずもがな」の部分など全く想像つかなくなる。勝手な理論で勝手に組み立てているだけの繰り返しだから、幼稚性も抜けない。子どもの書いた作文を読めば、よく分かるはずです。漢字が使われていなくても、内容的に「ほーっ」と思わせる作文の、いかに少ないことか。
 字面を追うだけの読み方になってしまうと、ストーリーを追うことにさえ「面倒」とまで感じるようになる。ついには「読書ってかったるい」と言い始めるようになるわけです。読書嫌いの子どもたちでもマンガから知識を吸収している例はよく見られます。ストーリーにのめり込んだ、つまりは読んだからこそ、バーチャルな旅ができたわけです。読んでいないから知識は増えない。知識が増えないからいつまでもそのレベルにとどまるしかない。知育的成長は停止してしまうわけです。これでは困ります。
 では、マンガではなく、ちゃあんとした本が好きになるように、つまりは読書好きな子どもにするためには、具体的にどうすれば良いのでしょうか。この問いに対しては心理学者の河合隼雄先生が「簡単だ」とおっしゃっています。「子どもと一緒に書店に行く。子どもに図書券を渡す。親子それぞれ自由に本を見る。そして本を買って帰る。」ただそれだけだそうです。このお話には2つの重要なことが語られています。お気づきですか?
 1つは先ほどの「どの本にしようかと『自分で』選択すること」が含まれています。何より大切な点です。決して与えられたものではないということ。アメリカの本屋さんは立ち読み歓迎ですが、流石に日本の本が沢山置いてあるというところはないです。日本の本を読みたいと思っても、機会が限られてしまいますね。NYに行ったときに日系書店を訪れるか、一時帰国したときに書店巡りをするか。その程度しか対応策はありません。でも、機会があるときは必ず利用してください。もちろん、enaの図書室にある本であれば、自分たちで選んで読んでいることと思います。マンガが一番人気ですが。。。
 2つ目は「その選択も身銭を切らなきゃ上手にならない」ということです。面白い本を選んだときは問題ないのですが「なんでこんな本を買ってしまったんだろう」という失敗をしたときも、身銭を切っていると次の選択の糧にもなるというわけです。人に借りたり図書館で借りてきたりという手段も多い海外生活ですが、できれば子どもと買いに行くという行動をしたいものです。
 子どもは自宅の本棚からも本を選びます。例えばまだ文字が読めない幼児の場合、読んで欲しい絵本を本棚から取ってきます。「これ、読んで!」って。本当に面白いと思った本は何度も何度も、それこそ内容を覚えてしまってでも、それでも尚読んでくれとせがみます。だから借りた本でも、子どもが面白いと思った本は書店で求めて本棚に備えた方が得だというわけです。本棚が充実すれば、子どもの選択の幅が広がります。(本棚がいっぱいになってしまいますが。。。)その上、本棚にある読んで面白かった本は、その人の精神の軌跡を見るようなものになります。そうしたことを親子でやっていると、今まで見えなかった子どもの資質や気質が見えてくることもあります。  

■個性を見つける■

 子どもがおもしろがって読んでいる本を観察すると、「へぇー、うちの子って、こんな本が好きなんだ。。。」とか「上の子と下の子とでは、こんなに好みが違うんだ!」とか、我が子に対する色々な発見ができて、子どもと過ごす時間が楽しくなりそうではないですか?ここで大切なのは、自分の子どもを他人と比較したりせず、親が子どもを見守っているという点です。世間にはびこる平均値に脅かされることなく、穏やかな気持ちで子どもを見つめることができれば良いわけです。
 親と一緒になって、子どもが「この本、面白い!」とか「ちょっと、つまんない」とか良いながら楽しんでいけば、いつか子ども自身、自然と自分自身の趣味趣向を見いだすものなのです。好きは好き、キライはキライとハッキリ自覚していけば、自分の趣味趣向を発見でき、すると自分というものが見えてくるし、自分なりの考え方を持てるようになります。「面白いは面白い。つまらないことはつまらない。」そう感じることは大切です。個性というものは、こうした過程で作られるものではないでしょうか。人に強制されて作るものではないはずです。また実体のない個性からも無縁でいられます。自我が目覚めてきた頃に「これは自分の個性だから」と何でも押し通そうとする生徒も見られますが、そうした生徒こそいかに個性のないことか。そうした生徒に共通することが、世間知らずだったり、視野が狭かったり、人の話を聞けない生徒だったり、つまりは豊かな読書生活をしていないということであったりします。そんな生徒であれば、小論文など書けません。そんな生徒では帰国子女に求められるものなど、持ち合わせてはいません。そして、そんな生徒を目の前にして「どんどん書け!書けば書くほど上手くなる!」と豪語している指導者ほど、無知なものはありません。生徒について、何一つ発見しているものがないのですからね。
 受験についてだけではありません。学校や会社で蔓延しているイジメや情報の混乱がもたらすストレスなどに押し流されることのない自分を作るためにも、その人なりの個性を確立することは大切です。いかがわしい新興宗教や詐欺集団に騙される人々。その人たちは高い教育を受けたといっても、『個』というものが未成熟だったのではないでしょうか。だから自分なりの楽しみは子どもでもおろそかにできないというわけです。  

■遊びから生まれるもの■

 遊びの中で獲得してきたものの中には、はかりきれない価値を持つものがあります。人は成長するときに、友達の中で過ごしながら、又は自然の中で過ごしながら、いつの間にか人や物を見る目を養い、そしてその結果、とっさの時に使う発想や判断力などを身につけているのです。だから極論は、子どものうちは勉強より遊びです。子どもたちに勉強させなければならない塾講師の立場であっても、これは断言できることです。遊びが上手い子どもは、工夫が上手いのです。工夫が上手い生徒はノートの使い方や授業の受け方、自習や復習の仕方を簡単に飲み込んで、自分なりに消化していきます。結果、成績向上も比較的簡単にできるようになってしまうのです。模擬テストの成績推移をゲーム感覚に捕らえられている生徒のことです。
 読書も同じです。親子で共通の「遊び心」で楽しめば、色々なものが見えてきます。子どもに「遊び心」を持たせれば、嫌うはずなどありません。いうまでもなく、子どもは本来知的好奇心の固まりのはずなんですから!
 今までの教育者や児童図書の専門家などは、子どもが感じた「おもしろい」「たのしい」を軽視してカリキュラムの先取りを優先させてきました。これは間違いでした。良くなる気配が全く感じられません。そして毎年拍車のかかる読書離れ。そのくせ、さしたる成果もないのに、事態は反対にだんだんヒートアップし、「早期教育が大事」「英語の本は3歳からじゃ遅すぎる」「これをやって、次はこれをやって。。。」と速射砲のごとくのありさまです。
 早期教育のおかげで賢い大人が増えたのでしょうか?「ユーモラスな政治化」「機転の効く役人」「客観的なジャーナリスト」「仕事の本質を見誤らない銀行家」など新聞やテレビを見ていると、ご立派な大人に事欠きません。もちろん皮肉です。早くはじめれば絶大な効果があるとは決して言えないわけです。教育とは、常に我が家にとってのプラス・マイナスを意識しておくべきだと思います。例えば先取り重視の早期教育や知育児童書には次のような大きなマイナスがあります。小さな学年から塾に通うことのマイナスを考えてみましょうか。  

■のんびりがだいじ■

 「親が先生のような視点で子どもを見てしまう」という点。これは実際は大きなマイナス。先生は他人です。塾の先生ならば、あくまでも進学という軸に対しての関係です。だからこそ、冷静なものの見方ができるわけで、感情に走った親の指導とは一線を画しているわけです。その目を親が持ってしまう。冷静になれますか?どうしても「できのいい子」を愛でて、「できの悪い子」を疎ましく思いがちです。自分の子を「劣等生」と決めつけ親が傲慢な態度に出て、そのために子どもが毎日怯えて暮らす。本来子どもの聖域であるはずの家庭が、逆に苦痛の場所になってしまう。「家出する子どもたち」「切れる子どもたち」には、親の先生化が一つの原因になっているかも知れません。海外にいる親としては、とても怖いことです。親が先生になる機会が国内より多いのですから。
 次は「子どもが安直に何でも分かった気になってしまう」というマイナス。好奇心は知性や感性の大本です。早く、早くとせかされることによって取りこぼしが多くなり、それでも分からなきゃいけない。かといって復習する時間を与えてくれない。本当は「え?これって、何なの?」という知的好奇心が散在していたのに、そこには目をつぶらなくてはならなくなる。そこで仕方が無く「分かったつもり」を演じてみるようになる。成長するに従って、かつてあった好奇心が「知ったかぶり」というウイルスのせいでだんだん縮み、無関心・無感動という病に変形していきます。
 一番の子どもである「赤ちゃん」は、周りを見渡せば殆ど分からないことダラケです。しかし分からないからということで不安になったりはしません。それどころか、わからないからこそ、好奇心の固まりになっているわけです。子どもにとって「分からない」は武器なのです。だから何でも「はやくはやく」は害です。子どものペースをしっかり見つけてあげることこそ、周りの大人の役目ではないでしょうか。だからこそ、私たちは「渡米前にしっかりとしたビジョンを!」とお話ししてきているわけです。帰国直前に慌てたところで、誰でも簡単にできることなど有りはしないというわけです。  

■本選びの基準■

 「この本は、うちの子には難しいのでは」と迷ったりすることが良くあります。ところが面白い本は年齢など関係ない、普遍的な力を持っています。大人が面白いと思った本は、子どももそれなりに面白いと思うものなのです。本選びの基準は「分かる分からない」ではなく「面白いか、面白くないか」です。この点においてのみ、問題集選び・参考書選びと本選びは大きく違います。問題集選びなどに対しては「子どもの学力より、ほんの少し上のもの」を選ぶのが理想です。そうすると2つのことが大切です。一つは子どもの客観的成績を常に把握しておくこと。市販の教材に対して我が子はどこまでできる能力があるのか、正確に把握しておくべきです。そして2つ目は、何故その問題集が必要なのかということ。補習用?進学準備用?その目的によって選ぶべきものは違ってきます。
 さて、どんな本が面白いのか。面白い本との出会い。何しろ人間個人差があります。親でも、子どもにとって何が「面白いか面白くないか」はわかりません。ましてや他人の子どもが「わかりやすい」と思った本が我が子にとって「おもしろい」と感じるとは限りません。海外生であれば習得されている日本語力は千差万別なのです。それなのに「海外生をひとくくりにして、これがいい本だと豪語する専門家の意見」なんか、無視してもいいと思えませんか?我が家のことをロクに知りもしない、知ろうともしないのに「ああだ、こうだ」いう専門家の意見なんか、耳を傾ける必要など無いわけです。

 何事も、人に頼らず、我が家の方法を見つけることが何より大切ということです。

 

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